大晦日から、父が食べ物も水も受け付けなくなったそうだ。
今日、息子と2人で様子を見に行って来たのだが、
父は大いびきで寝ていて、何度声をかけても起きる様子も無い。
暫く様子を見ていたのだが、何も出来ずだし、
見ていても辛いだけなので、よく頼んで帰宅した。
血圧が上が60を切ったら、危ないそうなのだが、
まだ120あるそうだ。
この前、医師と相談したのは、自然死の看取りだ。
救急搬送イコール延命処置になるので、自然に任せると言うもの。
水も飲まないから、薬も飲んで居ないそうだ。
父が現在どういう状態なのか?
食事も水も飲まない…で、検索したら、
僧侶が書いた以下のような文章が。
書かれている事が、本当ならば、父の死期は近い。
だがしかし、苦しんでいるようでも無いと言う事になる。
今週中に絵を二枚描かないとならないのだけど、
明日から本格的に仕事モードになろう。
自分がすべき事をするのが、今私が出来る事。
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自然死の話
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」という本がよく売れているという。医療を否定するような書名がついているが、書いたのは現役のお医者さまである。
特別養護老人ホームで常勤の医師をしている著者は、そこで高齢者の死をたくさん見取ってきた。しかもその中には点滴も酸素吸入も一切おこなわないという自然死が、数百例含まれていた。そうした貴重な体験を元に、大往生するための一番いい死に方として著者が勧めるのが、その自然死である。
誰しも死に際になると物を食べなくなり、水もほとんど飲まなくなる。そして飲まず食わずの状態になると一週間から十日で死亡する。これは飲食しないから死ぬのではなく、死ぬから飲食しなくなるのであり、死ぬ前には腹も減らず、のども渇かないという。
そしてその飲まず食わずの間に、体の中の栄養分や水を使い果たし、枯れ木のようになって死んでいく。それが自然死であるから、その具体的な内容は餓死である。ならば飢餓と脱水状態のために苦しみながら死ぬのかというと、そうではない。次のような理由から、安らかな死を迎えられるようになっているという。
まず飢餓状態になると、脳内にモルヒネのような物質が分泌されて幸せ一杯の気分になる。
次に脱水状態になると、意識レベルが下がりボンヤリとした状態になる。
また呼吸が充分できなくなると、体内が酸素不足になり、一方で炭酸ガスが増えてくる。酸素不足になるとやはり脳内にモルヒネのような物質が分泌され、一方の炭酸ガスには麻酔作用がある。
これらのことが組み合わさることで、いい気持ちのまま意識レベルが低下し、痛みも苦しみもない、不安も恐怖もない、もうろうとしたまどろみのうちに死んでいく。死は自然の営みであるから、本来、過酷なものであるはずがなく、ガンでさえも自然死の場合には痛みがないと著者は言う。
ところが病院に入院している場合には、飲まず食わずの状態になるとすぐに水分や栄養物が注入され、呼吸がだめになると酸素吸入が行われる。そのため体は枯れ木ではなく水ぶくれの状態になり、穏やかに死を迎えることもできなくなる。
医者の仕事は治療することにあって自然死させることではなく、病院は治療の場であって患者を放置する場ではない。そのため入院している限り自然死は期待できないのである。
だから、と著者は言う。救急車を呼ぶのは、あらゆる延命医療をして欲しいと頼むことだから、自然死を希望する人はいよいよという状態になったら、救急車を呼んではいけない。たとえ他の人が呼んでしまっても乗ってはいけない、追い返せ、と。
ただし医者にかかっていない人が死亡した場合、不審死と見なされて警察が介入してくることがあるから、まったく医者にかからないのも問題があるとか。
著者は言う。治療には病気を治すとか、生活の質を改善するなどの目的がなければならず、それが望めない人に治療を施すのは、いたずらに苦痛を長引かせることでしかない。また医者といえど死にゆく人にできることは実際には何もない、と。
フランスの老人医療の基本は、「本人が自力で食べ物を飲み込めなくなったら、その時点で医者の仕事は終わり、あとは牧師の仕事」だという。北欧では、患者の前に食べやすく調理した食べ物を置き、手を付けなければ下げてそれ以上のことはしないという。日本でも昔は、食べなくなった人には水だけ与えて静かに見取る、ということが行われていたという。
要するに自分であれ家族であれ、口から飲食できなくなったらいよいよ寿命が尽きたと覚悟を決めるべきなのである。だからいろいろ手出しをする「看取り」よりも、ただ見ている「見取り」の方がいいのだろう。もちろん若い人の場合は別であるが。
著者は終末医療の鉄則として次の二つのことをあげている。
死にゆく自然の過程の邪魔をしない。
死にゆく人に無用の苦痛を与えない。
日本人は死に関することを、考えたり口にすることを忌み嫌う傾向がある。しかしいくら目をそむけていても死は訪れる。死も人生の一部だからよく考えて準備しておくべきである。
準備も覚悟もない人が死に直面すると、とにかく一分一秒でも長く生きていればよいという選択しかできなくなり、結局は自分や家族を苦しめることになる。あわてたりまごついたりしないように予行演習もしておいた方がよい。自分の生前葬をしてみると死を実感し多くの発見があるという。
末期のガンは猛烈に痛む、という常識がある。著者も初めはそれを信じていたというが、ガンによる自然死を何十人も見取った経験から、この常識はまちがいだと結論している。こういうまちがい常識ができたのは、ほとんどの医者は自然死を見たことがなく、またガン患者を放置するとどうなるかも知らないからという。
ガンが痛むのは、放射線を浴びせたり、猛毒の抗ガン剤で痛めつけたりするのが原因であり、攻撃的な治療をやめて放置すればガンは痛まない。手遅れのガンが見つかるのは、それまで痛みがなかったという証拠であり、ガンは本来痛まず穏やかに死んでいける病気だという。著者はガンで死ぬことの長所を列挙し、死ぬのは完全放置のガンにかぎると断言している。
今日では二人に一人がガンにかかり、三人に一人がガンで死んでいる。ところが健康な人であっても毎日五千個もの細胞がガン化しており(なんと一秒間に三個)、免疫細胞がそれらを退治してくれるお蔭でガンにならずにすんでいるが、歳を取るとこのしくみが衰えてくる。
つまりガンの最大の原因は加齢であり、高齢者のガンは長生きの税金みたいなものだから、老化現象と考えて無理な治療をせず、残された時間を治療以外のことに使うことも考えるべきだと著者はいう。
参考文献
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」中村仁一。2012年。幻冬舎。