母が70歳の時に描いた文章がある。
400字詰原稿用紙一冊分。
自叙伝を自費出版するんだ!と意気込んで書いていた。
書き上げたモノを読んだ私の感想で、臍を曲げた母がそれ以上の行動を起こさなかったから、父はその存在さえ知らなかった。
6歳の時に実の母が亡くなり、直ぐに後妻さんが来て、それはもういろんな大変なことがあったわけだ。
その継母や夫の悪口が、山ほど書かれていてね。笑
お母さん、これは読んで悲しい思いをする人がいるし、悪口は何も生まないよ!と、私が正直に言ったから。
確かに継母とは、そういう存在だったのだろうけど、私はその人にはとっても可愛がって貰ったし、私自身がその人を嫌いじゃ無いのは、母がその人によく尽くし、私に悪い印象を植え付けなかったからだと感謝している。
口では、悪く言っても私の母はそういう人だった。
母が亡くなり引き出しの整理をしていてそれを見つけた。
父に読む?と聞いたら、読まない!と言う。笑
あの時、棺に入れようとは思わなかったし、父の棺に入れる気も無かった。
時々引き出しの整理をして見つけては読む。
読む度に、こんな事も書かれてあったと思うのだ。
最初読んだ時に、悪口部分ばかり気になっていたけれど、実は良いことも山ほど書かれているのだから。
読む度に、泣く。私への愛も山ほど書かれているから。
毎度、涙が止まらない。こうして書いて居ても、また涙がこぼれる。
早くに亡くなった祖母は、昭和の初めに教会を通していろんなボランティア活動をして居たらしい。
困った人があれば手伝いに行き、多くのモノを分かち合う人。
手伝いに行った先で、腸チフスに感染し40歳前半で亡くなった。
『ある日町で知らない女性に声をかけられた。
お嬢ちゃんは、○○ひろ子ちゃんよね?!
生前のお母様に、本当にお世話になり、今の私が在るのはお母様のおかげなの。
貴女も大変な事が多いと思うけど、頑張って生きていくのよ。と言ってくれた。
自分は本当に可哀想な境遇の娘だと思っていた。
でも、こうやって見ず知らずの人が私を気にかけてくれる。
亡き母が、人に優しくしていたおかげだ。
だから私も、自分が関わる人には優しくして生きていこうと思った。』
そうして私の母も、ボランティアに生きた。
母の死後、町で私も知らない女性に声をかけられた。
お母様に大変お世話になったんですよ。
お葬式にも行きました。その時貴女がお母様の遺したと言う生地で作られたティッシュカバーも頂きました。
大事に使うわね!
そうあの時、数日間で300位のカバーを縫ったっけ。
縫うよりそれにティッシュを入れるのがたいへんで、当時の生徒さんたちに手伝って貰ったんだわ。
困った時にはいつも助けてくれる人が居た。
母が最大限いろんな人に優しくしていたのが、巡り巡ってちゃんと私に返って来ている。
だから、私も自分が関わった人には、うんと優しくするのだ!
こうして、いろんな事が受け継がれていく。
もっと色濃く受け継がれているものがあるが、それは又別の機会に。